昨日、今日と曇りのち晴れ。

(昨夕の太陽)

(本日正午頃目撃のムギワラトンボ)
はじめに
1954年上映の映画「二十四の瞳」は、前回の記事にも書いたように、その後リメーク版と8回のテレビドラマにも取り上げられている。
この映画は一般的に「反戦映画」とされている。しかし、果たしてそれだけでこれほどまでに何度もテレビドラマで取り上げられ続けているのか、疑問なきにしもあらずである。
また、この映画は涙、涙、涙の連続として推移し、涙無くして鑑賞できない作品でもある。しかし、通俗映画にありがちな、筋の通らないハチャメチャな「お涙頂戴映画」では決してない。
そのことは、1987年リメーク版を切っ掛けに、「二十四の瞳映画村」(香川県小豆郡小豆島町田浦甲931)が開設され(1971年廃校になった当初使用の「岬の分教場」とは約700m離れている)、片田舎の小豆島南東岸に日本のみならず海外からも多くの観光客が訪れていることからも窺えよう。
昔の映画舞台地であっても、現在今なお多くの観光客が訪れているのは、映画「二十四の瞳」が不朽の名作であることの一つの証と言えよう。言わば、「小豆島=二十四の瞳」の等式が成り立つとさえ言われている。
そこで今回、この映画が不朽の名作たらしめる最大の理由に迫ってみたいと思うが、その前に「小豆島」とモデル舞台学校等はどういうところかを簡単に説明する。
小豆島
小豆島は瀬戸内海東部(播磨灘西部)に浮かぶ、面積/153.30㎡(瀬戸内海で2番目、日本全国で19番目)、人口/約2万5881人(2020年推計)の島である。北方の本土には岡山県(瀬戸内市・備前市)があり、南方の四国には香川県(さぬき市・東かがわ市)がある。
島の行政区画は、北部が香川県小豆郡土庄町、南部が香川県小豆郡小豆島町(人口約1万3000人)となっており、小豆郡には2町しかない。

https://www.youtube.com/watch?v=urz3Sdj4k68
産業は醤油、佃煮、手延べソーメン等もあるが、オリーブを中心とする食品関連産業は特に有名である。
映画「二十四の瞳」のモデル舞台学校等の考察
映画「二十四の瞳」の舞台となった「岬の分教場」のモデルは、「苗羽小学校田浦分校」(1971年閉校)であり、「本校」は「小豆島町立苗羽小学校」とされている(苗羽小学校)。
そうすると、大石先生の自宅は「本校」より内海湾近辺北西3㎞付近のところにあったということになろうか。大石先生は内海湾をほぼ半周して、自宅から本校を挟んで、「岬の分教場」までの8㎞の道を50分かけて通勤していたのである。
https://akkamui.com/blog-entry-824.html
https://suigyu.com/suigyu_noyouni/2015/12/post-755.html
この点、原作の「岬の村から見る一本松は盆栽の木のように小さく見えた」という件から、大石先生の自宅があったと考えられている「竹生(たこう)の一本松」付近は、「岬の分教場」から13㎞のところにある。すると、おそらくその自宅位置は実際と違った原作者の創作によるものであろうか?


(videosalon2010「渡し船で二十四の瞳映画村へ」等を引用)
https://www.youtube.com/watch?v=OgTGtHp0mZ8(自宅位置の説明は15分27分頃)
もっとも、原作者の「壷井栄」自身は舞台地を小豆島とも何とも言っておらず、単に「瀬戸内海べりの一寒村」としているだけである。従って、大石先生の自宅と分教場との距離にズレがあっても、不思議ではない。
小学校女教師と教え子らとの関係
この映画は、小学校女教師と教え子らとの間に起こった「出会い⇨別れ⇨再会⇨永遠の別れ⇨再会」という展開を通して、双方の揺るぎない絆の高さを問わんとしている。 ただ、僅か4か月ほどの双方の触れ合いだけで、かくも18年間にも及ぶ強固な絆が築けたことに、驚きを隠せない。
これも、人と人との繋がりが強固であった戦前・戦後の時代背景と、分教場での少人数教育の賜物であったのかも知れない。
勿論、良い教師や良い生徒であったこともあろう。まさに、唱歌「仰げば尊し」(https://www.youtube.com/watch?v=ERuAlRzITX0)を地で行っているようである。
二十四の瞳は「反戦映画」か?
映画「二十四の瞳」は一般的に「反戦映画」と言われている。しかし、戦争に関わるシーンは後半部分のみ。それも「出征兵士を送るシーン」のみで、戦場での戦闘シーンはない(https://www.youtube.com/watch?v=ZbG9eFK4qbA)。そして、出征した夫と教え子3人の死の知らせと、盲目になって帰還した1人の教え子の様子だけである。
確かに、涙、涙、涙の連続の終局は「戦死」にあるので、その意味で戦争がなければ愛する夫や教え子3人を失わずに済んだ。そのことから、一番悪いのは戦争であって「反戦映画」と見て差し支えないとも言える。また、涙の質の極限は戦死にあるとも言える。
しかし、反戦映画としての側面を否定するものでないにしろ、この映画の初めから終わりまでを通じ首尾一貫しているのは、教育的愛情によって形成される師弟愛でなかろうか。そのことからこの映画は、むしろ「師弟愛映画」というべきである。
もしそうでなければ、「反戦映画」だけで何度もテレビドラマで取り上げられることはなく、また、片田舎の小豆島の「二十四の瞳映画村」にまで、日本のみならず海外の観光客が絶えることなく訪れることもないであろう。
それにしても、「仰げば尊し」の唱歌がやけにひっかかって来る。
https://www.youtube.com/watch?v=TNtk9R5SdSk
二十四の瞳は「お涙頂戴映画」か?
それでは、この映画は「お涙頂戴映画」であろうか?
一般的に、通俗映画とされる「お涙頂戴映画」は、何ら脈絡もなく、又訳もなく突然泣かせる場面を意図的に作られた映画という理解であれば、この「二十四の瞳」は、涙を流す必然性が首尾一貫している。
訳もなく突然泣かせられているものではない。であるので、「お涙頂戴映画」とは次元が違う。いくら涙、涙、涙の連続シーンが多いからと言っても、お涙を頂戴している作品では決してない。
もし、この映画が「お涙頂戴映画」であるならば、キネマ旬報ベスト・テンで評価の高かった「七人の侍」をおさえて1位を獲得していなかったであろうし、又ブルーリボン作品賞も受賞していなかったであろう。
将又、ゴールデングローブ賞外国映画賞さえも受賞していなかったであろう。もっとも、これら受賞の権威を否定するのであれば、別ではあるが。
よって、「お涙頂戴映画」という作品ではない。
おわりに
以上、映画「二十四の瞳」を鑑賞し、いろいろこの映画についての考えを述べて来たが、やはり日本映画史上屈指の作品と思わざるを得ない。
壷井栄文学の最高傑作とも言うべき「二十四の瞳」作品に、巨匠「木下惠介」監督が音頭を取り、昭和の大女優「高峰秀子」が主演して制作されたこの映画は、朽ちることのない永遠に人々の心を打ち続けるであろう。
今回は特に、大石先生が50分(8㎞)かけて岬の分教場まで通勤した自宅はどこであるのかに焦点を当て、ネット記事等検索して調べてみた。
そして各記事等を照らし合わせると、大石先生の自宅とされる位置にはズレがあり、いずれが正しいのか当初戸惑った。
そのためいろいろ考えあぐねた結果、大石先生の自宅は実際岬の分教場から13㎞先の「竹生(たこう)の一本松」付近にあったのが、本校との距離を3kmとするために自宅を8㎞に設定したのでないかと推測した。この推測はまさに、「当たるも八卦当たらぬも八卦」である。
それにしても、これまで当ブログで次の3作品を、日本映画史上最高傑作の部類に入るとして来たが、今回改めてこの「二十四の瞳」もこれらの部類に入ると考えた。
名作映画「ビルマの竪琴」 - 諦観ブログ日記(2023年12月31日)
名作映画「白い巨塔 」- 諦観ブログ日記(2024年5月10日)
名作映画「キューポラのある街」- 諦観ブログ日記(2025年6月9日)
ひょっとしたら知らないだけで、まだまだ日本映画史上最高傑作の部類に入る映画があるのかも知れない。
最後に、二代目コロンビア・ローズが歌唱している、次の歌謡曲「二十四の瞳」(作詞/丘灯至夫、作曲/戸塚三博。1965年6月)を紹介して、本記事を終える。