昨日は雨。今日は曇り。

(今朝撮影のバラ)
はじめに
1954年上映の監督/木下惠介、主演/高峰秀子の松竹映画「二十四の瞳」は、同年黒澤明監督の「七人の侍」をおさえて、「キネマ旬報ベスト・テン」で1位に輝いた傑作品である。
この作品は、ブルーリボン作品賞や毎日映画コンクール日本映画大賞のみならず、ゴールデングローブ賞外国映画賞をも受賞している。
https://www.youtube.com/watch?v=gKxr41437x4
1987年には、監督/朝間義孝、主演/田中裕子によるリメーク版も上映された。
TVドラマでは、1964年(主演/香川京子、TV東京)、1967年(TV朝日)、1974年(NHK)、1976年(NHK)、1979年(TBS)、2005年(同/黒木瞳、NTV)、2013年(同/松下奈緒、TV朝日)&2022年(同/土村芳、NHK)と各主演女優を変え、続々と放送されて来た。
では、これまで幾度もテレビドラマで放送されて来た「二十四の瞳」とは、どういう物語か、高峰秀子主演映画を通して見てみる。
概要
時代は1928年(昭和3年)~1946年(同21年)、舞台は瀬戸内海べりの一寒村(映画では原作者「壺井栄」の出身地/香川県小豆島)である。登場人物は小学校女教師と男の子5人、女の子7人の計12人(二十四の瞳)。
戦前・戦後の18年間に起こった涙、涙また涙の悲しい出来事が、女子師範学校出たての新米教師と生徒らとの触れ合いを通じて展開して行く、生徒が小学校1年の6歳~24歳、先生は22歳~40歳(一応の目安)の話。
この点、研究者等は小説・映画とも具体的な年齢の言及がないので、女教師の赴任時は20歳前後、戦後の再会時は40歳代前半と推定しているようである。
まあ、いずれであっても、この物語は具体的な年齢が重要なのでなく、「女学校出たての新米ほやほやの先生」ということが重要なのである。
(1) 1928年(昭和3年)4月からの1学期 ~プロローグ(出会い)~
4月4日、女教師「大石久子」(以下、「大石先生」という。)が自転車に乗って職場の「岬の分教場」に赴任途中に、12人の小学生と遭遇する場面から物語は始まる。
寒村では見られない洋服を着て、自転車に乗っていたため、村人から怪訝な目で見られている。又、子供らからは、小柄だったため大石先生というより「小石先生」とあだ名される。


学校では、次第に唱歌や遊び等を通じて大石先生と生徒らの濃密な信頼関係が育まれて行った。

(2) 同年9月の2学期 ~別れ~
大石先生と12人の生徒が浜辺に行っていたところ、大石先生が上級生の掘った穴に落ちて骨折した。そのため休校を余儀なくされる。
その代用教員として老教師が教えることになるも、歌が不得手なため生徒らにはしっくり来ない。
そうこうするうち、とある日子供たちは大石先生に会いたくなり、大石先生の自宅に歩いて行くことにした。
岬の分教場から女教師の自宅までの距離は8㎞、途中生徒らがへばって泣いていたところ、運よく大石先生の乗ったバスが通りかかって救われる。
子供たちは大石先生の自宅で「きつねうどん」をごちそうされ、浜辺で松葉杖を付いた大石先生と一緒に記念写真を撮る。

その後、大石先生の足の直りが悪いため自転車通勤(50分)が不可能となり、岬の分教場から5㎞先にある本校(自宅と本校の距離3㎞)に異動することになった。
(3) 1932年(昭和8年)4月 ~再会~
分教場での教育は小学校1年~4年生まで、5年生からは本校で教育を受ける決まりになっている。そのため5年生になった子供らは、本校で教鞭を取っていた大石先生のクラスで教えてもらうことになった。
(4) 1933年(昭和9年) ~再会・別れ~
学校の始まる五日前に大石先生は結婚。この場面以降、子供の様々な家庭事情が明るみになる。その中でも、女子生徒の一人「松江(マッチャン)」の母親がなくなり、大阪へと奉公(養子)に出され6年生の途中退学を余儀なくされる。
10月小学校6年の修学旅行時、大石先生は香川の「金毘羅さん」のてんぷらやで大阪に奉公に行ったはずの「マッチャン(松江)」に出くわす。大阪でなく、香川で奉公(養子)していたのである。
僅かな時間双方会話して別れたが、マッチャンは帰って行く大石先生らを乗せ遠ざかる連絡船を岸壁から見送りながら、何度もすすり泣く。


大石先生は妊娠のため6年生の卒業と同時に学校を退職した。生徒の旧家の娘「富士子」は、小学校卒業後に実家が破産して消息不明となる。


(5) 1941年(昭和16年)~1945年(昭和20年) ~永遠の別れ~
船乗りの夫、子供3人と慎ましやかな生活を送るも、1941年12月太平洋戦争が勃発。生徒が出征前に挨拶に来る。夫も出征。女子生徒「コトエ」が病気で大阪の奉公先から帰還するも、肺結核で死去する(22歳)。
(1945年8月終戦)
大石先生の母親、長女とも死去。夫と3名の男子生徒が戦死。
(6) 1946年(昭和21年)4月 ~エピローグ(三度の再会)~
再赴任先の分教場で教え子らが生んだ子供たちと出会う。ここで、大石先生は涙するので、「泣きミソ先生」とあだ名される。
かって12人いた生徒(二十四の瞳)のうち7人と再赴任先で再会し、歓迎会が行われる。この歓迎会で、戦争で盲目になって帰還した「磯吉」が記念写真を指でなぞりながら名前を呼ぶ(一堂、涙)、最後に教え子から自転車を贈呈される(大石先生、涙)。


ラストシーンは、その贈呈された自転車に乗り、大石先生が雨合羽を羽織って通勤する途中で、ディ・エンドとなる。


映画で唄われている童謡・唱歌の意義
この映画「二十四の瞳」では童謡・唱歌がふんだんに使用されており、当時の観衆にとって郷愁を誘う意味からも、より一層涙するものとなっている。
例えば、仰げば尊し、アニー・ローリー、故郷、港、朧月夜、星の界、浜辺の歌、埴生の宿、村の鍛冶屋、七つの子やチンチン千鳥等である。
https://funakoshiya.net/cinema/neta004.htm
https://www.youtube.com/watch?v=gOt0MmgPHmQ
https://www.youtube.com/watch?v=E0bZi7ylJJo
やはり、ふんだんに歌われる童謡・唱歌無しにはこの映画は成り立たなかったであろう。この点なぜか、小豆島の風光明媚な風景だけが強調されがちである。
おわりに
映画「二十四の瞳」を鑑賞しての感想として、映画の中盤以降は涙、涙、涙の連続となっている。それも、涙の質が深化している。単なる別れの悲しみから教え子や肉親の死という永遠の別れにより最高潮に達しているのである。
本来なら、大石先生は慟哭しても良さそうであるが、この映画ではすすり泣きで終わっているようである。
やはり、この映画ではすすり泣きの方が品があって良いのであろう。というのも、観衆にとって悲しみの実感がじわっと伝わって来るからである。
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