今日は、快晴。今朝、車のフロントガラスに霜が張っていた。
昨日夕方から、のどに違和感!風邪なのか?
はじめに
今回は、中学・高校時代に歌詞の意味も分からず、音楽授業で歌っていた愛唱歌3選を、取り上げたい。美しいメロディーにばっかり気を取られ、詩の意味もはっきりと分からず、ただ漠然と「良い曲だなぁ~!」と思って歌っていた。
音楽の授業なのであるから、詩の意味や背景は余り重視されなかったのであろう。
当然ではあろうが、作曲者のことについては触れていたよう!
今となって考えるに、音楽教師もどれほど、詩の意味や背景を理解して授業していたか疑問に思うこともある。なぜなら、「この曲の詩の意味や背景は、こういうものですよ!」と説明された記憶が余りないから。
思うに、歌は感情表現の発露であり、詩情の吐露が音楽表現となって聴き手に伝えることが重要であろう。であれば、詩の意味や背景を理解して歌うのと歌わないとでは、歌がうすっぺらになったり、味わい深いものになったりするのでないだろうか?
まあ、中学・高校生にそこまで要求する必要はないと言われれば、身も蓋もない。
今回取り上げたい愛唱歌は、「❶浜辺の歌と❷ブラームスの子守歌、そして❸花の街」の3選である。
以下、それらの曲の素晴らしい部分と「詩の意味や背景」を、少し考えて見たい。
浜辺の歌とブラームスの子守歌
(1)曲について
林古径作詞・成田為三作曲の、❶浜辺の歌は、「あした浜辺を さまよえば」から始まる典型的な「二部形式」の曲である。特に、第3小楽節目の冒頭「風の音よ 雲のさまよ」の「サビ」(ブリッジ)の部分は絶品である。
他方、❷ブラームスの子守歌(堀内敬三訳詩)についても、同様で、第3小楽節目の冒頭「眠れ 今はいと安けく」も、このことが言える。
特に、二部形式の単調な曲は、サビ(ブリッジ)部分の善し悪しが、「不朽の名曲」になるかならないかの分かれ目のような気がする。
ところで、浜辺の歌が、ワルツ王「ヨハン・シュトラウス2世」作曲の「芸術家の生涯」の一部のメロディにそっくり、との次の記事があった。聴いてみると、確かに、第3小楽章を除き、よく似ている。(>_<)
しかし、浜辺の歌の核心は第3小楽章にあり、大作曲家の曲の発想を一部抜き取ったとしても、名曲であることには変わりがないだろう。
さらに大作曲家ブラームスについて言えば、彼が作曲したという名曲「ハンガリー舞曲」について、旧友レメー二から、盗作として訴えられていたとのことである。
結局は、「作曲」と言わずに「編曲」としてブラームスが勝訴したとのこと。
つまり、作品番号を付けず、「自作」でないということで決着。
「ハンガリー舞曲」盗作騒動にみる創作的利用の自由 – 早稲田大学知的財産法制研究所[RCLIP]
大作曲家ブラームスですら、メロディ作りに枯渇し大変苦労したよう。ドボルザークのメロディ・メーカー振りに驚嘆したぐらいであるから。
ブラームスは、モーツアルトのように、次から次へとメロディが湧き上がる程の大天才ではなかったのであろう。
そういう事情があっても、「ブラームスの子守歌」は、数々ある「子守歌の名曲」の中でも、最高傑作の曲だと思っている。
私個人も、かって、❶と❷の曲を最大のモデルにして、二部形式の曲をギターを用いて作曲したことがある。「秋の呼び声」と「緑の川よ」である。
これらは、とある地方商工会議所主催の毎年恒例の音楽祭で、いずれも佳作入賞(3位)を果たした。審査員長は、いずれも大学の先生であった。その時の印象として、大賞を受賞するには単調な曲では難しいと感じた。
さらに又、趣味程度で作曲したぐらいでは、大賞授賞も無理だとも思った。なぜなら、授賞した大賞曲が普段音楽を習っている人でないと、できないぐらいに洗練されたものであったから。メロディの善し悪しでないと感じたのを記憶している。
その時分、「子守歌」がメインの作曲部門音楽祭であれば、何とか、佳作を超える賞も頂けたかなと、思い上った気持ちも・・・果たしてどうであったろうか?
なお、後になって「子守歌」も作曲した。作詞が1番しかできず、又、応募の機会もなかったので、作品の応募はしていない。
(2)作詞等について
❶浜辺の歌の歌詞には、深い意味があるとは知らなかった。歌詞の1番と2番が学校等で歌われている。1番、2番では、単なる浜辺の風景を歌っただけに終わる。
その先に何があるかは想像の域であった。歌詞自体も難しく、誰かが浜辺の様子を見て物思いに耽っているぐらいにしか思わなかった。
ところが、その歌詞で伝えたい本当の意味が3番、さらに本丸とも言うべき、4番に隠されていたとは・・・特に、4番については驚きである。
この点について、次の記事が分かり易く明解に説明している。
歌詞の意味や背景は、以下の記事に、すべて述べられている。奥が深いよう!(-_-)
さらに、後掲のブログ記事は、歌詞4番復元の事情について詳しく記している。何か、3番と4番がごちゃまぜになって、3番で終わっているのが、現在の歌詞と言うことのよう。
歌詞3番、4番のごちゃまでの事情は、作詞家・林古径まで分からないとのことのようである。出版社が勝手に書き換えたとの話もあり、真相は不明。
この3番の歌詞で、「病が癒えた人」が見えて来たが、上記記事では、同歌詞中の「赤裳のすそ」は、「女性の赤い着物」だということ。そして女性ではないだろうかと推測している。しかしそうであれば、「やみし われは」は、当時の女性が使った言葉だったということか。そして、「まなご」は、離れ離れになった「我が子」を思う気持ちを表していると推測している。
しかし、今一腑に落ちないようにも・・・。
そのためか、上記記事には、さらに男性であったかも知れないとし、「赤裳のすそ」は、「恋人の服装」であると回想した、別の解釈を紹介している。そして、「まなご」も「倉辻正子」(作曲家・成田為三の片思いの女性)と解釈する余地があると推測している。
その方が、作曲家自身の心情の吐露にも合致するようか?
さらに又、上記「その2解説」は、結核を患っていた作詞家・林古径自身が、同様に結核を患っている姪を思って書いたとも推測している。むしろ、詩を書く本人自身のことを記すのが自然であるので、こちらの見解の方が信ぴょう性が高いように思える。
多分、出版社が成田為三の片思いの心境等をも斟酌し、歌詞3番、4番をごちゃまぜにして、いずれにも解釈できるように取り計らった可能性もあろうか?
浜辺の歌の三番と、四番復元の試み | ニューロンとワイヤの狭間から
まあそれはさておき、文科省が、音楽教科書で歌わせるのは、歌詞1番、2番までが穏当なのであろう。
意味は分からなくても良いと言うことなのであろう。
3番、4番の歌詞において、離縁された女性の歌?とか、作曲家・成田為三の片思いの恋の歌?とか、結核患者の歌?だったことが分かるという点について、それらは好ましくない情報なので、学生は知らなくて良いことなのである。(?_?)
次に、❷ブラームスの子守歌には、次の通り訳詞を含めて、たくさんの作詞がある。
その中でも、堀内敬三さんの訳詞や武内俊子さんの作詞が、人口に膾炙しているように思う。堀内さんの訳詞は格調が高い。しかし今では、武内さんの作詞の方が言葉遣いとしては歌いやすいであろうか。
ブラームスは、この「子守歌」を、自己が指導していた合唱団員の出産祝いに贈ったということ。不世出の名曲を贈られた団員は、誠に名誉なことであったであろう。
それにしても、上記たくさんの作詞等があっても、意味合い自体は、それぞれそんなに変わらないのが、子守歌なのだろうか?赤ちゃんを寝かせ付けるための歌ゆえにか。
花の街
❸「花の街」は、戦後のNHKラジオ番組から人気を博し、全国に伝播したとのこと。それは知らない。高校時代に音楽の授業で習ったような記憶がある。
そこはかとなく美しいメロディで、唱歌の中でも特に印象的な曲であった。(^.^)
NHKラジオから流れた、ダーク・ダックスが歌っていたものが素晴らしかった。しかし、その分は、ユーチューブにない。チェロ伴奏に乗せたのが良かったのに・・・。
江間章子作詞・團伊玖磨作曲の「花の街」は、歌詞において一部誤って歌われているということである。長らく、音楽教科書にも掲載され、名曲として親しまれて来たのに、間違いのまま放置されて来たのである。
それは、歌詞1番は「歌いながら」なのを、「春よ春よと」に、
そして、同3番の「街の角で」なのを、「街の窓で」に、
それぞれ、作詞家の思いと違って、長らく間違いのまま歌われて来ているとのことである。(>_<)
念の為に、ユーチューブで確認して見た。
まず、倍賞千恵子さん、鮫島有美子さんが歌う「花の街」では、3番の歌詞「街の角で」なのを、「街の窓で」と歌っている。
次に、芹洋子さん、井原義則さん、小川明子さんが歌う「花の街」では、1番の歌詞「歌いながら」なのを、「春よ春よと」と歌っている。
ユーチューブ上では、1番の歌詞「歌いながら」なのを、「春よ春よと」と歌っているのが多いよう。
なお、この「春よ春よと」の部分については、作曲家・團伊玖磨さんの意向が入っているとかどうとか言われているも、不明のよう(まるで、「浜辺の歌」の歌詞の時と同じよう)!
これらの間違いは、次の記事によれば、作詞家・江間章子さんの確認済みとのことであった。
何故なんでしょうね~!
名曲中の名曲であるだけに・・・。
確かに、1番の歌詞「春よ春よと」の方が響きは良い感じはする。しかし、作詞家の著作を無視して、間違ったままの譜面が使用され、歌手により間違って歌われる続けていることは、作詞家にとって不本意であろう。
しかも、国定音楽教科書が間違いなら、なおさらのこと!
どういうわけか、江間章子さんは、あまり拘っていないような風であるが・・・。
そもそも、江間さんによれば、花の街は、「幻想の街」を想像して作詞したとのことである。
1番、2番の歌詞からは、緑豊かな春の山間の谷を、美しい花びらが舞っていて、いかにものどかな春の歌声が聞こえて来そうに思われる。
うららかな春の様子である。ところが、3番の歌詞から、事態は一転し、「泣いていたよ 街の角で」とか「ひとりさびしく ないていたよ」で、穏やかでない様子が看取される。
しかし、3番の歌詞からでは、戦争で廃墟となった街の様子が窺えない。子供が親から叱られて、街角で泣いているだけのようにも思える。それだと、1番、2番の歌詞と繋がらない。
やはり、「戦後復興への曙」のように感じるべきだろうか?
作詞家本人が「幻想の街」と言い、現実と幻想がないまぜ?になっているような状況下の旨を話しているから。
ついでに言うと、3番歌詞冒頭の「すみれ色していた窓」についても、当初はうららかな様子と思っていたのが、次に進むにつれ、それとは異なり、おどろおどしく感じられるようになっている。
まさに、戦争で廃墟になった、がれきだらけの中にいる人の有り様が窺えようか。
それらのことを考えると、「街の角で」を間違うのは、絶対譲れない部分であろう。
3番の歌詞こそが、作詞家の言いたかった核心部分だからと思われるから。
「街の角で」「ひとりさびしく」「ないていたよ」のフレーズは、何とも言えない核心的雰囲気を醸し出しており、それ以外のフレーズは、この部分へのイントロのようである。
「歌いながら」について、例え響きが良くても「春よ春よと」と間違えて歌うのは、春の躍動感が損なわれるような気がする。しかも歌詞の2番に「春よ春よと」が使用されているのに、重複する必要性があるのだろうか?
なお、次の方の見解は、「歌いながら」より、「春よ春よと」の方が、ぴったりしているということである。
おわりに
これまで、心に残る「愛唱歌3選」の、特に歌詞部分に重きを置いて書いて来た。
以前、作家の故川内康範さんが森進一さんに作詞提供した「おふくろさん」(作曲猪俣公章)について、森進一さんがその歌詞を一部改変したため、川内さんの逆鱗に触れ、今後これを歌うことを禁じられたことがあった。
森進一と作詞家がバトル! 『おふくろさん騒動』を振り返る - エキサイトニュース
全文表示 | 「情と恩を踏みにじられた」川内氏 「おふくろさん」騒動の「真相」判明 : J-CASTニュース
それぐらい、作詞家にとって精魂込めて作った歌詞への思いは強かったのだろう。
浜辺の歌は、大正時代の話なので、国家統制下での色々な制約があり、改変は仕方なかったのであろう。戦前の唱歌はかなり改変されて来たようである。
ブラームスの子守歌に関する歌詞が多いのは、格調高いとは言え、文語体を口語体に直した経緯が有りそうか?
しかし、何故、このようなことに拘るのかと言えば、名曲であるから。又、当然著作権保護による金儲けのこともあろう。もし、売れなければ、これ程問題にもならなかった筈である。ブラームスのハンガリー舞曲が売れに売れまくったために、盗作騒動が起こったのがその一例である。「おふくろさん」も、似たような感じである。
再度言う。浜辺の歌や花の街について、歌詞にまで深掘りして拘るのは、名曲中の名曲だからである。名曲であれば、当然、歌詞の意味も掘下げて知りたくなるもの。
それにしても、浜辺の歌がヨハン・シュトラウス2世の「芸術家の生涯」の一部パクリとは知らなかった。今であったら、ジャスラックが黙っていないだろう。
しかし、それで音楽文化の発展はあるのだろうかと思う。もし、昔、ジャスラックのような存在があって、憲兵のように一部始終目くじらを立てて、監視するようであったら、名曲「浜辺の歌」は誕生しなかったであろうから。
現在、名曲と言えるものが見つからないのは、音楽著作権規制が強烈であるからに他ならないと思う?
音楽著作権者を保護すると言いながら、他面で、音楽文化の向上・発展を阻害しているように思えてならない。