一昨日は雨。昨日は雨のち晴れ。今日は晴れ時々曇り。
今日、モズがやって来た。フェンス等に止まっていたのは「モズ子」ちゃんらしい。さらに、電線に止まっていたのは「モズ吉」くんのようである。
その様子は次の写真(5枚)のとおりである。


(「モズ子」ちゃんか?)


(以上、モズ吉くんか?)
はじめに
山本譲二さんは、歌手を目指し演歌界のスターダムへと伸し上がるまでに、苦節12年もの長年月を要している。その間、歯を食いしばって風雪に耐えて、所期の目的を達した数少ない演歌歌手の一人である(注1)。
出会いには、作曲家の浜圭介さんがおり、何よりも北島三郎さんとの接触がなかったなら、歌手への道がとん挫していたかも知れない。例え、全日本歌謡選手権10週勝ち抜いた「才能の持ち主」でも、である。
しかしそれ以上に、三島大輔作品に出合わなければ、スターダムへの道が閉ざされていたかも知れない。またこの時期、所謂「山本節」を確立したことも大きく影響しているものと思われる。
つまり、「三島大輔作品」+「山本節」の融合こそが大ヒットにつながる縁となり、スターダムへと駆け上ったのであろうか。
以下、そのことについて考えてみたい。
なお、山本譲二さんの演歌歌手スターへの簡単な略歴を紹介すると、次のようになる(注2)。
❷ 1974年(24歳)、芸名「伊達春樹」・デヴュー曲は「夜霧のあなた」
❸ 1975~76年の2年間(25~26歳)、「北島三郎」の付き人に
❹ 1976年(26歳)、全日本歌謡選手権を10週勝ち抜いて、本名「山本譲二」で再デヴュー(曲/そばにおいでよ)
❺ 1980年(30歳)、「みちのく一人旅」が翌年にヒットして、演歌歌手スターへ
デヴュ―曲
山本譲二さんは、当初、芸名を「伊達春樹」として、次の2曲を歌唱していた。
❶ 「夜霧のあなた」(作詞/千家和也、作曲/浜圭介、編曲/竜崎孝路。1974年。注3)
https://www.youtube.com/watch?v=sCVBtVv40ak
❷ 「帰っておいで」(作詞/山口洋子、作曲/三木たかし、編曲/竜崎孝路。1975年)
https://www.youtube.com/watch?v=S-3b7wcy6es
しかし、いずれもヒットに恵まれず、不遇な歌手生活を送っていた。そんな中、北島三郎さんに弟子入りするようになった。
この時代の「山本譲二」さんの歌い方は、所謂「山本節」がなく、個性的な歌い方でなかった。
再デヴュー曲
その後、山本譲二さんは全日本歌謡選手権10週勝ち抜きを契機に、本名「山本譲二」として、次の曲で再デヴューを果たした。
❶ 「そばにおいでよ」(作詞/山口洋子、作曲/鈴木淳、編曲/竜崎孝路。1976年)
YouTubeなし
❷ 「北ものがたり」(作詞・作曲/中山大三郎、編曲/若草恵。1978年)
https://www.youtube.com/watch?v=Y2DEx8h8N3g
この頃になると、多少「山本節」の片鱗が見られるようになったとは言え、未だヒットには繋がらなかった。
スター演歌歌手へ(みちのく旅・三部作)
歌手生命への崖っぷちに立たされた「山本譲二」さんが、最後に乾坤一擲の勝負をした曲は、次の「みちのく一人旅」であった。
❶ 「みちのく一人旅」(作詞/市場 馨、作曲/三島大輔、編曲/斎藤恒夫。1980年。1981年にヒットしてスターダムへ。第32回NHK紅白出場曲。累計レコード売り上げ130万枚)
https://www.youtube.com/watch?v=Dh_b5JtMP-A
https://www.youtube.com/watch?v=lIwgNL-H_SE
https://www.youtube.com/watch?v=NbP_XmmTi_g
しかし、この曲でもヒットしたのが翌年になってからである。もちろん、この頃には「山本節」は確立されていた。今では、この曲が山本譲二さん歌唱曲の代名詞になっている。(注4)
その後、以下の曲で「山本節」は遺憾なく発揮され、演歌スターへの道をまっしぐらに駆け進んだ。
❷ 「旅の終わりはお前」(作詞/市場 馨、作曲/三島大輔、編曲/斎藤恒夫。1982年。第33回NHK紅白出場曲)
https://www.youtube.com/watch?v=9ZsIkTgjoZw
https://www.youtube.com/watch?v=pBIAYUCTrQY
❸ 「奥州路」(作詞/石原信一、作曲/三島大輔、編曲/斎藤恒夫。1984年。第35回NHK紅白出場曲)
https://www.youtube.com/watch?v=gY5zWXMaU-I
https://www.youtube.com/watch?v=cD1XVmZFq8I
❹ 「夕陽」(作詞/荒木とよひさ、作曲/平尾昌晃、編曲/馬飼野俊一。1988年)https://www.youtube.com/watch?v=mnaN3EEBHfo
https://www.youtube.com/watch?v=N8OIpsjfjwA
なお、上記❶~❸を、自己流に「みちのく旅・三部作」と命名する。
おわりに
以上、山本譲二さんのデヴュー&再デヴュー時代の歌唱曲から、ヒットへと繋がった作品を紹介してきた。そこから言えるのに、「三島作品の良さ+山本節の炸裂」こそが大ヒットに貢献したのは自明の理であろう。
歌手としての才能は言わずもがな、むしろ良い曲に巡り合えるか否かが重要なポイントで、それこそがスターダムへと伸し上がれる大きな要因となっていそうである。
思うに、良い曲はそうそうに巡り合えるものではなく、息の長い歌手人生を送るのに、歌手としての才能が必須であろう。と言うのも、短命で終わったスター歌手もいるからである。特に、演歌歌手よりもポップス歌手に、その傾向が多くみられる。
(注1)
2022年7月、日本維新の会から出馬して参院議員になった「中条きよし」さんも、1968年に芸名「渥美健」等で歌手デヴューするも、全くヒットしなかった。又、作曲家「平尾昌晃」の付き人も経験している。その後、1974年に再デヴューし、「うそ」が大ヒットした(当時28歳)。前年の1973年には、全国歌謡選手権10週勝ち抜きを果たしていた。
しかし、年金未納の発覚や参議院での新曲紹介で、良識ある国民からは顰蹙を買い、「国会議員」が「うそ」であるかのような受け止め方(参院議員として相応しくない)がされた。と言うのも、参議院は「良識の府」とされているからである。
その他、1971年に「よこはま・たそがれ」が大ヒットして、スターダムへと伸し上がった「五木ひろし」さん(当時23歳)も同様に、不遇な歌手時代を経験している。彼も、1970年に全国歌謡選手権10週勝ち抜きを果たしている。
それにしても、山本譲二さんの30歳からのスターダム登壇は遅すぎる感が否めない。
(注2)
ヒット曲への道のりについては、「道あり」歌手山本譲二さんに関する連載記事(読売新聞オンライン 九州発西部本社編集局の企画・連載)が参考になろう。
山本譲二[プロフィール] / TEICHIKU RECORDS
https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/feature/CO050452/20230227-OYTAT50036/
(注3)
芸名「伊達春樹」時代のデヴュー曲を、その後に「山本譲二」として再歌唱した「夜霧のあなた」(作詞/千家和也、作曲/浜圭介、編曲/竜崎孝路。2009年)は、次のとおりである。
https://www.youtube.com/watch?v=IPgZ-YG3LR4
この曲を聴くと、デヴュー時代の歌唱方法とは明らかに違う「北島節」ならぬ、「山本節」へと変化しているのが分かろうか。
(注4)
所謂「山本節」とは、敢えて言うならば、次の❶杉節(低音部)と❷北島節(高音部)とが融合した歌唱方法のように思われる。
❶ 「杉良太郎」歌唱の「すきま風」(作詞/いではく、作曲/遠藤実。1976年)
https://www.youtube.com/watch?v=L2aKlhloDyE
❷ 「北島三郎」歌唱の「函館の女」(作詞/星野哲郎、作曲/島津伸男。1965年)
https://www.youtube.com/watch?v=FMIXeHodWEE